10月23日、東京国際フォーラムで開催される「ニッポン・シャンソン・フェスティバル2024」にシャンソン歌手のクミコが出演します。今年のイベントは、特に注目の集まる一日。フランスのシャンソンに40年以上も携わってきた彼女は、自らの歩みと共にシャンソンがどのように人生を支えてきたのかを語っています。「この道一筋ではなく、常に体半分は逃げ腰でした」と打ち明ける彼女の告白からは、苦悩と挫折を乗り越え、音楽との深い絆が感じられます。
シャンソンに馴染みのない方も、このフェスティバルでクミコの魅力を存分に感じ取れるはずです。今もなお挑戦を続ける彼女の思い出や新たな試みに触れ、その一端を探ってみましょう。
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シャンソン歌手・クミコ「この道一筋ではなく…常に体半分は逃げ腰だった」回り道の連続、気づけば隣にシャンソンがいた
「逃げ腰」だったシャンソンとの出会い
シャンソンを40年以上歌い続けてきたクミコですが、決してこの道に迷いなく進んできたわけではありません。「常に体半分は逃げ腰だった」と語る彼女の姿には、意外な一面があります。シャンソンと出会った当初、彼女はむしろ流行歌で知られるようになりたかったのです。「本当はもっと大衆的な歌を歌いたかった」というその言葉からは、シャンソンというジャンルが持つ独特の位置づけに対する葛藤がうかがえます。
彼女にとって、シャンソンはあくまで「腐れ縁」だったと笑いながら話すクミコ。しかし、時が経つにつれて、シャンソンは単なる音楽以上の存在へと変わっていきました。彼女はシャンソンを「伴走者」と呼び、その深みや奥行きに自分自身がフィットしていったことを実感するようになったと言います。
苦難の中で見つけた音楽の意味
彼女が苦悩を抱えながら歩んできた道は、時に音楽から逃げ出したくなるほどのものでした。1987年にはミュージカル『レ・ミゼラブル』に挑戦しましたが、その経験は彼女にとって辛いものでした。「ミュージカルのことを何も知らない状態で飛び込んだ」と語るクミコは、稽古が嫌で嫌でたまらなかったと当時を振り返ります。しかし、そうした経験の中でも彼女は前に進み続けました。
その結果、シャンソンはただの「道具」ではなく、クミコ自身の感情を表現するための最適な「伴走者」となりました。年を重ねるごとに、その音楽の持つ意味が一層深まり、彼女の人生の一部として根付いているのです。
越路吹雪への敬意と未来への挑戦
今年は、日本シャンソン界のレジェンド、越路吹雪の生誕100年を迎えます。クミコもまた、シャンソン界で越路吹雪に対して強い敬意を抱いています。特に、越路吹雪と作詞家・岩谷時子とのパートナーシップがシャンソンを日本に広める大きな要因であったとクミコは考えています。シャンソンというジャンルは、二人の力によって「独特の歌」に生まれ変わり、多くの日本人の心を捉えました。
クミコ自身もシャンソンの未来を見据え、これからもステージに立ち続けることを誓っています。「年を取ってから歌うことも面白いですよ」と語る彼女は、若さや体力が衰えても、年齢に応じた深みのある歌が歌えることに喜びを見出しています。
演歌ニュース記事 感想
クミコさんの歩んできた道は、決して平坦ではなかったことが彼女の言葉から強く感じられます。「逃げ腰」だったという発言は非常に興味深く、人は必ずしも自信満々で道を歩むわけではないという点で、多くの人が共感できる部分だと思います。それでも彼女は音楽に向き合い続け、その道を歩み続けました。シャンソンというジャンルが、彼女にとって単なる音楽以上の意味を持っていたことに深く感銘を受けます。
特に、彼女が「伴走者」としてシャンソンを捉えているという表現は、非常に詩的でありながらも現実的な人生の教訓が込められているように感じました。年を重ねてなお、音楽を通じて新しい発見をし続けるクミコさんの姿は、多くの人にとって勇気づけられるものです。これからもシャンソンの美しさを日本に伝え続けてくれることを楽しみにしています。
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