「最期まで復帰を望んで…」増位山太志郎さん、逝く。土俵とマイクを愛した優しい巨星、その76年の軌跡

また一つ、昭和の大きな星が静かに天へと旅立ちました。大相撲の元大関であり、演歌歌手としても一世を風靡した増位山太志郎(本名:沢田昇)さんが、2025年6月15日、肝不全のため76歳で永眠されたとの悲しい知らせが届きました。土俵で見せた圧倒的な強さとは対照的な、あの甘く優しい歌声。多くの人々を魅了した「角界の美声」がもう聴けなくなると思うと、寂寥の念に堪えません。所属事務所によると「最期まで活動復帰を強く望んでおりました」とのこと。相撲と歌、二つの道を誰よりも愛し、全力で駆け抜けた増位山さんの輝かしい人生の軌跡を、ここに静かに偲びたいと思います。

https://news.yahoo.co.jp/articles/4da7c1e5cd83cb1749a316e446dc0511fb7b71ab
元大関で演歌歌手の増位山太志郎さんが肝不全で死去「最期まで活動復帰を強く望んでおりました」

土俵に咲いた、史上初の親子大関

増位山さんの名を語る時、まず思い出されるのは、力士としての輝かしい功績でしょう。1967年に初土俵を踏み、順調に番付を上げて1970年には幕内へ。そして、父である先代増位山(元大関)の背中を追い、見事に大関の地位を掴み取りました。これは相撲史に燦然と輝く「史上初の親子大関」という偉業であり、多くの相撲ファンを熱狂させました。その取り口は、恵まれた体格を活かした力強いものでありながら、どこか優雅さも感じさせるものでした。1981年に惜しまれつつ引退した後は、10代・三保ヶ関を継承し、親方として数多くの後進を育成。相撲界の発展に大きく貢献されたことも、決して忘れてはならない功績です。

角界の美声、甘い歌声で一世を風靡

土俵を離れた彼が、もう一つの才能を花開かせたのが、マイクの世界でした。力士現役中の1972年に歌手デビュー。その甘く切ない独特の歌声は、すぐに「角界の美声」として評判を呼びます。そして「そんな夕子にほれました」「そんな女のひとりごと」「男の背中」といった代表曲を次々とヒットさせ、演歌歌手としての地位を不動のものにしました。その歌声は、まるで聴く者の心にそっと寄り添うような温かさに満ちていました。2013年に日本相撲協会を定年退職されてからは、本格的に歌手活動を再開。生涯をかけて、歌を愛し続けたその情熱には、ただただ頭が下がるばかりです。

最期まで持ち続けた、復帰への強い想い

近年は、2022年12月から敗血症のため体調を崩し、療養生活を送られていました。しかし、その闘病生活の中にあっても、彼の心から歌への炎が消えることはありませんでした。所属事務所が発表した「最期まで活動復帰できることを強く望んでおりました」という一文は、私たちの胸を強く打ちます。もう一度マイクの前に立ちたい、ファンの皆様に歌声を届けたい。その一心で、懸命にリハビリに励んでおられたことでしょう。「相撲を愛し、歌を愛し、たくさんの方々に愛していただいた人生でした」。その言葉通り、多くの人に愛された優しい巨星は、たくさんの思い出と名曲を残し、静かにその生涯の幕を下ろされました。

演歌ニュース記事 感想

増位山さんの訃報に接し、心にぽっかりと穴が空いたような、深い寂しさを感じています。「元大関の演歌歌手」という、唯一無二の存在。一つの時代が、本当に終わってしまったのだなと実感します。子供の頃、テレビで見た力強いお相撲さんの姿と、歌番組でマイクを握る優しい笑顔と甘い歌声。そのギャップがとても魅力的で、子供心に強く印象に残っています。「そんな夕子にほれました」の切ないメロディーは、今もすぐに口ずさむことができます。彼の歌声には、その優しいお人柄そのものが溶け込んでいるようでした。何よりも胸を打たれたのは、「最期まで復帰を強く望んでいた」という事務所の方の言葉です。病と闘いながらも、ファンへの想いを持ち続けておられたその情熱に、真のエンターテイナーの魂を感じました。もう、あの新しい歌声に触れることは叶いませんが、遺してくださった数々の名曲は、これからも私たちの心の中で永遠に輝き続けることでしょう。心よりご冥福をお祈りいたします。

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