山本譲二と、彼のレギュラー番組「ジョージのぶち好きやけー!」のプロデューサー、益弘泰男氏の対談が実現。長年にわたって日本の歌謡界を支えてきた2人が、時代を超えて変わらない「歌」に対する愛と、歌い手としての矜持について語り合いました。益弘氏は、紅白歌合戦や歌謡コンサートに長く携わり、山本譲二の成長を見守ってきた人物。今回はその二人の対話を通じて、演歌の魅力や歌手としての山本譲二の姿に迫ります。
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対談 山本譲二×益弘泰男プロデューサー――時代が変わっても変わらない本質
初対面と山本譲二の成長
益弘泰男氏と山本譲二の出会いは、1990年代の歌謡コンサート時代に遡ります。山本は当時「みちのくひとり旅」の大ヒットで注目され始めたばかりで、まだ自信に満ちた歌手ではなかったと語ります。「益弘さんは本当に鋭くて、厳しい人だった」と、当時を振り返る山本。益弘氏もまた、山本譲二の成長を静かに見守りながら、「彼なら時代を超えて生き残る」と確信していたと言います。その厳しい中にも、益弘氏が感じていた山本の可能性が、今では大きく花開いています。
「奥州路」での転機
1984年、山本譲二が「奥州路」を歌い、第5回古賀政男記念音楽大賞を受賞したことが、彼にとっての大きな転機となりました。益弘氏はこの曲が「山本譲二でなければ歌えなかった」とまで高く評価します。しかし、山本自身は「当時、そんなことを言ってくれたらもっと自信を持てたのに」と冗談交じりに語り、二人の間には長年の信頼関係が伺えます。「奥州路」を通じて、山本は歌手としての深みをさらに増し、益弘氏もまた彼の実力を認めていたのです。
時代の変化と山本譲二の挑戦
1990年代、演歌の市場が縮小する中、山本譲二はテイチクに移籍します。演歌界に冷たい風が吹き始めた時代においても、山本は「歌い手としての矜持」を捨てることなく、新たな挑戦を続けました。益弘氏は、山本の「みちのくひとり旅」や「奥州路」以外にも素晴らしい楽曲が多く存在することを称賛し、「時代が変わっても譲二さんの歌は色あせない」とその歌い手としての本質を評価しました。
演歌ニュース記事 感想
この記事を読んで、山本譲二さんがただ一時のヒット歌手ではなく、長い年月をかけて成長し、歌手としての真価を発揮してきたことがよくわかりました。特に益弘さんとの対話を通して、厳しさの中にある愛情や信頼関係が垣間見え、感動を覚えます。また、彼が「奥州路」で転機を迎え、益弘さんの評価を得たことは、プロデューサーと歌手の信頼が歌の深みに影響することを教えてくれました。演歌界の厳しい現実の中で、山本譲二さんのような歌い手が挑戦を続ける姿には心を打たれました。
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