1933年(昭和8年)の演歌・歌謡曲

1933年:国際社会との決別と軍部台頭の始まり

昭和8年、1933年の日本は、国内外の情勢が大きく揺れ動く中で、政治・経済・文化のあらゆる分野において新たな局面を迎えていました。昭和初期の不安定な時代にあって、国家の進路をめぐる緊張と模索が至るところに見られた一年でした。

まず政治面では、前年の満州国建国に続き、日本の中国大陸に対する軍事的・政治的関与がさらに強まっていきました。3月には国際連盟がリットン調査団の報告をもとに、満州国を正式な国家とは認めず、日本に撤退を勧告する決議を採択します。これに対し日本は強く反発し、同月27日に国際連盟からの脱退を正式に通告。これは国際社会における孤立を意味するとともに、軍部主導の外交方針が明確に表面化した象徴的な出来事でした。政党内閣が続く一方で、軍部や官僚の発言力が目に見えて増していったのも、この頃からの特徴です。

社会情勢を見ても、軍国主義的な空気が徐々に社会全体へと浸透していく兆しがありました。学校教育では「皇国史観」や「忠君愛国」の理念が強調されるようになり、少年少女を対象とした軍事的訓練や行軍なども活発化します。また、国民の思想や言論に対する統制も次第に強まりつつあり、特に共産主義や社会主義に関わる人物や団体への取り締まりは厳しさを増していきました。

経済の分野では、昭和初期の世界恐慌の影響をいまだ色濃く残しつつも、回復への兆しがいくつか見え始めていました。金輸出再禁止政策や円安誘導策によって輸出が回復基調に入り、とくに繊維製品や雑貨類は海外市場で一定の競争力を保つことに成功します。また、政府主導による公共事業や軍事予算の拡大が内需の支えとなり、徐々に経済全体を下支えしていく体制が整えられました。

一方で、都市部と農村部の経済格差は深刻化していました。都市では多少の景気回復が感じられる一方、農村では昭和金融恐慌や冷害、米価下落の影響から貧困と困窮が続いていました。子どもの口減らしとしての「娘の身売り」が社会問題となり、農村救済策を求める声が政府に寄せられます。実際、政府はこの年、農村経済更生運動を推進し、耕地整理や生活改善のための各種施策を講じはじめましたが、十分な効果は得られなかったというのが実情です。

文化面に目を向けると、昭和モダンと呼ばれる都市文化が引き続き発展を続けていました。ラジオ放送や雑誌文化は一般家庭にも広まり、大衆文化の浸透が顕著となります。音楽の分野では、藤山一郎や小唄勝太郎といった新しいタイプの歌手が登場し、ジャズやシャンソンの要素を取り入れた新時代の歌が支持を集めました。また、新聞や雑誌では新しい流行や海外のファッションが取り上げられ、都市部の若者たちのライフスタイルにも変化が生じていきます。

映画産業においても、トーキー(有声映画)の普及が加速し、観客動員数は着実に伸びていきました。日活や松竹といった大手スタジオによる作品制作が本格化し、映画スターも徐々に一般の人気を集める存在となっていきます。演劇や文学の分野では、プロレタリア文学が弾圧を受けつつも、一部ではリアリズムに基づいた社会描写が続けられ、庶民の目線に立った物語が人気を博すようになります。

スポーツにおいては、野球や陸上競技、相撲などが国民の注目を集め、都市部では近代的なスタジアムが整備されはじめました。学校教育における体育の重要性も説かれ、健康的な身体の育成が国家の将来と結びつけて語られるようになります。またこの頃から、オリンピックへの出場準備や、国際的なスポーツ競技に対する関心も高まりを見せていました。

国際情勢との関係においては、日本の孤立が強まる一方で、国内では自給自足的な経済観や独自路線を正当化する空気が広がっていきます。欧米列強との対立構造が浮かび上がる中で、アジアにおける影響力を強めようとする動きが強調され、国家のイデオロギーや外交方針にも変化が現れはじめました。

このように1933年の日本は、外では国際社会からの離脱と軍事的拡張、内では経済の立て直しと文化の成熟という、相反する動きが同時に進んだ年であったといえます。表面的には近代化と安定への歩みが続いているように見えながらも、その足元では次第に軍部主導の体制が根を張りはじめていたことが、後の歴史の展開に大きな影を落とすことになります。昭和という時代が内包していた可能性と危うさの両面が、静かにその輪郭を現した一年でした。

1933年:民謡とモダンが響き合う、歌謡曲のはじまり

1933年の音楽シーンは、日本国内では歌謡曲を中心とした大衆音楽が広まり、海外ではジャズや映画音楽が重要な位置を占めるなど、文化の交差点として多様な潮流が芽吹いた年となりました。日本においては、昭和初期の社会情勢と相まって、音楽が庶民の心を支える娯楽として、より日常生活に浸透していった時代でもあります。

この年、日本の音楽界で特に目を引いたのは、民謡や端唄にルーツをもつ流行歌の隆盛です。市丸の「天龍下れば」や、小唄勝太郎による「さのさ節」「娘心」「大島おけさ」といった楽曲は、哀愁を帯びた旋律と素朴な情感で多くの庶民に親しまれました。これらの歌は、当時の農村や下町に生きる人々の生活感情をそのまま反映するようなものであり、戦前の歌謡曲の基礎を築いた重要な存在といえます。また、ミス・コロムビアの「十九の春」は、のちに沖縄民謡としても知られるようになり、長く歌い継がれる名曲となりました。

中野忠晴の「旅がらす」や「山の人気者」は、流浪の情景と希望を感じさせる歌詞で人気を集め、男性歌手の歌唱による流行歌の魅力を広めた一例といえるでしょう。同様に、赤坂小梅が歌った「月は宵から」「ほんとにそうなら」は、女性らしいしとやかさと芯の強さを両立させた表現で、当時の歌姫としての存在感を示しました。川畑文子の「泣かせて頂戴」や「キューバの豆売り」などは、ジャズやラテン音楽の要素を取り入れた斬新なスタイルで、新しい感覚をもつ都市部の若者から支持を得ました。これらの作品群は、まさに昭和モダンの風を色濃く反映しています。

昭和8年はまた、「東京音頭」が大ヒットした年でもあります。作詞・西條八十、作曲・中山晋平によるこの盆踊り曲は、全国に広がりを見せ、ラジオや各地の祭りで繰り返し歌われました。地域ごとにアレンジされることで、民衆の一体感や地域愛を育み、音楽が地域文化に深く結びつくきっかけとなったのです。また、学生たちの間では「琵琶湖周航の歌」も人気を博し、青春の哀愁と郷愁を象徴する歌として定着していきました。

海外の音楽に目を向けると、1933年はアメリカを中心に映画音楽とジャズが大きな発展を遂げた年でした。この年、伝説のジャズ歌手ビリー・ホリディが初めてクラブで歌っているところを発見され、のちの活躍の第一歩を踏み出しました。また、ハロルド・アーレンによる「イッツ・オンリー・ア・ペーパー・ムーン」や、ガートルード・ニーセンの「煙が目にしみる」は、ジャズ・スタンダードとして今日に至るまで多くのアーティストに歌い継がれる名曲です。映画音楽では「上海リル」や「狼なんか怖くない」など、映画と音楽の融合による大衆娯楽の深化が進み、アメリカを中心にした大衆音楽文化の影響力が世界的に拡大していきました。

また、前衛音楽の分野でも注目すべき動きがありました。ジョン・ケージがこの年に「クラリネットソナタ」を発表し、のちの実験音楽や現代音楽の方向性に一石を投じました。クラシックの分野では、プロコフィエフの「交響的な歌」、シェーンベルクの「弦楽四重奏と管弦楽のための協奏曲」などが演奏され、ヨーロッパではより複雑で抽象的な音楽言語への探求が続けられていました。

国内イベントに関しては、まだ日本レコード大賞やNHK紅白歌合戦のような全国的イベントは存在しておらず、音楽メディアとしてのラジオ放送が最も重要な役割を担っていました。日本放送協会(現NHK)はこの時期、全国的な放送網を活用して、地方の音楽や芸能を都市部に届けるなど、音楽の全国的流通と標準化に大きく貢献しました。また、コロムビアやビクターといったレコード会社がレコードの制作と販売に力を入れ始め、歌手たちは「SP盤」のリリースを通じて広く名を知られるようになっていきます。

1933年に誕生した楽曲やアーティストたちは、戦前の混乱と変化の中で人々の心の拠り所として機能し、のちの戦後歌謡、演歌、大衆音楽文化へとつながる確かな礎を築きました。民謡的な旋律と都市的なモダニズムの融合、ジャズやラテンといった洋楽要素の受容、そしてラジオやレコードによるメディアの影響力の拡大といった動きは、その後の日本音楽のあり方に多大な影響を与えています。昭和8年は、音楽が庶民の生活に深く根を張り、同時に世界の潮流と静かにつながりはじめた、時代の分岐点とも言える年だったのです。

1933年(昭和8年)の名曲、発売リスト

以下に、1933年の代表的な演歌・歌謡曲をいくつか紹介します。

  • 市丸「天龍下れば」
  • 小唄勝太郎「さのさ節」「娘心」「大島おけさ」
  • ミス・コロムビア「19の春」
  • 中野忠晴「旅がらす」「山の人気者」
  • 徳山璉「敵機襲来!」
  • 赤坂小梅「月は宵から」「ほんとにそうなら」
  • 川畑文子「いろあかり」「キューバの豆売り」「泣かせて頂戴」
  • 丸山和歌子「春じゃもの」「千夜子の唄」
  • 渡辺光子「街の流れ鳥」
  • 貴志康一「竹取物語」
  • 西條八十、中山晋平「東京音頭」
  • 小口太郎、吉田千秋「琵琶湖周航の歌」
  • 大垣市立興文小学校興文会「守れ国体、葬れ邪教」
  • 国歌「滿洲國國歌」

コメント

タイトルとURLをコピーしました