1934年(昭和9年)の演歌・歌謡曲

1934年:国際的孤立と文化の胎動が交差した年

1934年の日本は、政治の不安定さと社会の激動が交錯する一年となりました。年明け早々、京都駅で海軍入団者の見送りが引き金となって発生した将棋倒し事故では77名が犠牲となり、都市の過密と安全管理の課題が浮き彫りとなりました。一方、社会運動の高まりも顕著で、法政大学では予科教授の大量解雇により「法政騒動」が勃発し、学問の自由と大学自治をめぐる問題がクローズアップされました。

政治の面では、帝人事件が大きな波紋を呼び、汚職の追及が政界に激震をもたらしました。この事件は最終的に齋藤実内閣の総辞職に至り、7月には岡田啓介内閣が成立します。また、日本共産党内の「赤色リンチ事件」が明るみに出たことは、思想統制の強化と共に左派運動の弾圧を印象づけました。加えて、陸軍省が配布したパンフレット『国防の本義と其強化の提唱』では、国家総動員体制の基礎ともなる思想が提示され、軍国主義の浸透が進行しつつある兆しがうかがえました。

経済面では、戦前日本の近代化が一層進む中、富士写真フイルム(後の富士フイルム)や日本製鐵などの基幹産業企業が設立され、重工業や精密機器分野の発展が加速していきました。また、大日本東京野球倶楽部の結成(後の読売ジャイアンツ)は、スポーツと企業との連携の始まりとしても記念すべき出来事です。これに先立つベーブ・ルースら米大リーグ選抜チームの来日は、日本におけるプロ野球の普及に大きな影響を与えました。

国際的には、日本がアメリカにワシントン海軍軍縮条約の破棄を通告し、軍備拡張の道を明確にした年でもあります。同時に、東京・台北、東京・樺太間の無線電話開通は、通信技術の進展と日本の植民地統治体制の連携強化を象徴するものでした。外交面では、日・蘭印、日・フィリピン間での国際電話網の整備が進む一方、満洲国の帝政実施やナチス政権との連携姿勢が強まり、国際社会との緊張感は増す一方でした。

文化・芸術の分野では、忠犬ハチ公の銅像除幕式が上野で盛大に行われ、都市生活者の間でシンボル的な存在として定着していきました。また、日本劇場(通称・日劇)の開館は、都市型娯楽の新時代の幕開けを告げ、映画やレビュー文化の発展に寄与しました。この年には、「文章読本」を発刊した谷崎潤一郎をはじめ、和辻哲郎や田辺元などによる思想的著作も相次いで出版され、知識人たちの発信する言葉が社会の変化に深みを与えていました。

映画界では、国際的な評価を受けた『アタラント号』や『或る夜の出来事』といった作品が公開され、国内外での映画文化の成熟が感じられました。また、日活が多摩川撮影所を取得したことで、映画製作の中心が次第に東京に移行しつつあることが明らかとなります。こうした動きは、後の「黄金時代」と呼ばれる日本映画の礎を築くものとなりました。

一方、自然災害の爪痕も深く刻まれた年でした。室戸台風の襲来は広範囲にわたって甚大な被害をもたらし、東北地方では冷害によって深刻な凶作と飢饉が発生しました。このような中、昭和天皇からの救恤金や政府の臨時米交付法制定など、国家としての対応も行われましたが、農村部の疲弊は看過できない状況となり、戦時体制下での農業政策へとつながる伏線ともなっていきます。

全体として1934年の日本は、国際的孤立を深めつつも国内産業の近代化と文化の成熟が進行し、同時に思想・統制・災害といった重層的な問題が折り重なった年であったといえます。この時期に芽生えたさまざまな要素は、翌年以降の政治的混乱や文化的開花、さらには戦争への道筋を形づくる上で重要な伏線として機能したと考えられます。

1934年:昭和モダンが踊り出す音楽の年

1934年の日本の音楽シーンは、欧米の新しい音楽スタイルに刺激を受けながら、独自の大衆文化を形づくっていく過渡期にありました。昭和モダンの空気が街に広がる中、ジャズやタンゴなどの洋楽がカフェやレビュー劇場で人気を博し、同時に国内では新民謡や歌謡曲といったジャンルが確立されていきます。この年は特に、ディック・ミネや小唄勝太郎といった人気歌手たちが台頭し、庶民の心をつかむ楽曲を多数世に送り出しました。

その中心にいたのが、ハワイアンやジャズの要素を取り入れたディック・ミネでした。彼の「ダイナ」はその代表作であり、英語のフレーズを織り交ぜた斬新なスタイルは若者たちを魅了しました。また、中野忠晴も「Dinah」などで活躍し、アメリカ音楽への憧れが色濃く反映されたボーカルスタイルは、当時としては革新的でした。音楽が単なる娯楽を超えて、都会的センスの象徴となった時代でもあります。

一方で、国内での哀愁を帯びた旋律や歌詞に支持が集まったのが東海林太郎でした。「国境の町」「赤城の子守唄」などは、軍人や出征者、そしてその家族の心情を歌ったもので、戦前の不安定な社会状況の中で静かな共感を集めました。こうした曲は、演歌の原型とも言える存在であり、後の日本的情緒を表現する音楽の流れに大きな影響を与えたといえます。

女性歌手の活躍も目立った一年でした。ミス・コロムビアの「並木の雨」や、渡辺はま子の「ひとり静」、小林千代子の「カリオカ」などがヒットし、歌謡界に華やかさを添えました。とくに「カリオカ」は、南米音楽のリズムを取り入れた意欲作で、海外文化の受容と日本独自の解釈の融合という意味で先駆的な試みでした。

こうした中、忘れてはならないのが藤原義江による藤原歌劇団の設立です。オペラという西洋古典音楽のジャンルを日本で本格的に定着させようという試みは、当時としては大胆な文化事業でした。この試みが後の日本におけるクラシック音楽普及の礎となり、戦後の音楽教育や音楽家の育成にも大きく貢献することになります。

また、この年は童謡や行進曲、地方自治体の市歌・県民歌の制作も活発でした。「皇太子さまお生れなった」と題された女性歌手3名による記念曲は、皇室への祝意を込めて広く歌われ、国家と音楽との結びつきがより明確になった象徴でもありました。また、薄田泣菫作詞の「陽は舞いおどる甲子園」は、野球と音楽が結びついた初期の例として興味深く、スタジアムでの音楽使用の先駆とも言える存在です。

クラシック音楽の分野でも注目すべき作品が生まれました。山田耕筰の「鶴亀」や、大澤壽人の「交響曲第2番」、貴志康一の「日本スケッチ」「仏陀」などは、日本人作曲家が自国の風土や精神性をテーマに創作を試みたもので、いずれも後世の邦人クラシック音楽に道を開いた作品群です。こうした試みは、和洋折衷という言葉では収まりきらない文化融合の深みを持っており、今日の邦楽クラシックにも大きな影響を与えています。

その一方で、音楽シーンを彩ったイベントとしては、特筆すべき全国規模の音楽授賞イベントはまだ存在しておらず、紅白歌合戦やレコード大賞のような制度は登場していませんでした。しかし、各地のラジオ放送局による音楽番組が徐々に力を持ち始め、人気歌手たちはラジオ出演を通じて広く国民の耳に届けられるようになります。音楽が都市だけでなく地方へと広がり始めた契機でもありました。

こうして振り返ると、1934年の音楽は新しさと懐かしさが入り混じる、不思議な魅力を持っていたように思います。海外の音楽に目を向けつつも、日本ならではの情感や語り口を大切にした歌が生まれ、多くの人たちの心に届いていきました。まだ世の中が不安定な時代だったからこそ、人々は音楽に安心や夢を求めていたのかもしれません。この年に生まれた数々の歌や試みが、その後の日本の音楽を支える礎になっていったのは、きっと間違いないでしょう。

1934年(昭和9年)の名曲、発売リスト

以下に、1934年の代表的な演歌・歌謡曲をいくつか紹介します。

  • ディック・ミネ「ダイナ」
  • ミス・コロムビア「並木の雨」
  • 小唄勝太郎「おけさ踊り」「さくら音頭」「祇園囃し」「東京甚句」
  • 松平晃「急げ幌馬車」「利根の舟歌」
  • 中野忠晴「Dinah」「初陣」
  • 小林千代子「カリオカ」「利根の朝霧」
  • 奥田良三「これぞマドロスの恋」
  • 東海林太郎「国境の町」「赤城の子守唄」
  • 徳山璉「曠野転戦」
  • 楠木繁夫「国境を越えて」
  • 平山美代子、高山得子、松本俊枝「皇太子さまお生れなった」
  • 渡辺はま子「ひとり静」
  • 大澤壽人「交響曲第2番」
  • 箕作秋吉「小交響曲」
  • 山田耕筰「鶴亀」
  • 貴志康一「日本スケッチ」「仏陀」
  • 薄田泣菫&陸軍軍楽隊「陽は舞いおどる甲子園」
  • 民謡「会津磐梯山」
  • 市歌「川崎市歌」
  • 県民歌「宮崎県民歌」

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