1932年:政治の暗転と文化の灯が交錯した激動の年
1932年の日本は、政変と社会不安が交錯する激動の一年でした。特に政治の世界では、大きな事件と変化が相次ぎました。前年から続く満州事変により、日本の対外関係は緊張を増しており、この年にはついに「満洲国」が建国を宣言。これにより国際的な非難が高まる中、同年10月にはリットン報告書が公表され、日本の国際的孤立が深まりました。また、5月15日には海軍青年将校らによるクーデター事件「五・一五事件」が勃発し、犬養毅首相が暗殺されるという衝撃的な事態となりました。政党政治は大きな打撃を受け、軍部の政治介入が次第に強まる転機となったのです。
社会面に目を向けると、国民の間では不安や混乱が広がっていました。冒頭の1月には「桜田門事件」として知られる天皇暗殺未遂事件が発生し、さらには血盟団による一連のテロ事件で政財界の要人が次々と狙われました。こうした暴力的な政治的行動は、国家と国民の緊張感を一層高め、治安維持法による取締りも強化されていきます。一方で、都市開発は着々と進行しており、10月には東京市が拡張され35区体制となり、人口は世界第二位に。大都市化の波が日本を大きく変え始めていました。
経済面では、世界恐慌の影響がなお深刻で、日本の輸出は減少し続けていました。農村部では疲弊が進み、「生きていくこと」そのものが困難な世帯も少なくありませんでした。失業率の上昇、物価の不安定さも重なり、都市の労働者たちの間には不満がくすぶっていました。そのような中、軍需産業だけが満州関連の需要でわずかながら成長を見せるという、偏った経済構造が浮き彫りになっていきました。また、知識人の間では「日本資本主義発達史講座」の刊行が始まり、経済構造の分析や社会改革の必要性が真剣に議論されるようになります。
国際的には、日本の孤立が進んだ一年でもありました。日満議定書の調印により日本は満洲国を承認しましたが、これに対し国際社会は反発し、国際連盟の場でも厳しい批判が展開されました。リットン調査団の報告は日本にとって不利な内容で、最終的に国際連盟を脱退する方向へと日本を追い込んでいく流れが、この年に決定的となったといえるでしょう。
文化面では、動乱の時代の中でも人々は娯楽と芸術に心を寄せていました。映画の世界では、小津安二郎監督の『生れてはみたけれど』が公開され、都会生活のなかにある家族の葛藤を描いて注目を集めました。また、世界的には『グランド・ホテル』や『暗黒街の顔役』といった海外映画も話題となり、映画館には多くの観客が詰めかけました。音楽の分野では、ラジオ放送の普及により流行歌がより広く一般に親しまれるようになり、庶民の生活の中に新たな文化が根づき始めていました。ファッションの世界では、女性の洋装化がさらに進み、都市部の若者たちの間では洋風の髪型や洋服が一般化していきました。
スポーツの分野では、夏のロサンゼルスオリンピックが注目され、日本選手団が善戦したことで国内でも関心が高まりました。さらに、冬にはレークプラシッドで冬季五輪も開催され、日本人選手が初めて冬季大会に出場するなど、スポーツ国家としての芽も見えはじめた年でした。
このように1932年は、政治の激震、社会の動揺、経済の停滞、そして文化の萌芽が同時に進行した、きわめて複雑かつ重要な年でした。軍部の台頭と民主主義の後退が同時に進み、戦前日本の方向性が明確になっていった分岐点でもあります。そして一方では、映画や音楽、スポーツといった市民生活の側面にも明るい兆しが見られ、日本社会の多面性が際立つ一年だったといえるでしょう。
1932年:歌のかたちが変わり始めた時代
1932年の日本における音楽シーンは、大きな転換期のただ中にありました。昭和の初めという激動の時代、社会の緊張感や経済的な不安を背景にしながらも、人々の心に寄り添うような歌が数多く生まれ、庶民の間で愛されていきます。特にこの年は、戦時色が徐々に濃くなる中でも、音楽が人々の生活の一部として根強く浸透していたことを感じさせる作品が多数登場しました。
この年の邦楽シーンにおいて象徴的な存在となったのが、「影を慕いて」などのヒットを飛ばした藤山一郎です。彼の品のある声質と叙情的なメロディは、それまでの寄席や浪花節とは異なる洗練された音楽として支持を集め、後の流行歌における“歌手像”の原型を作り上げたと言っても過言ではありません。また、徳山璉や中野忠晴といった男性歌手たちも、独自の存在感で活躍を見せ、演奏スタイルと歌声の両面で新たな表現の幅を提示しました。
女性歌手では、小唄勝太郎やミス・コロムビアの活躍が目立ちました。「十九の春」などの作品は、哀愁を帯びた歌詞とわかりやすいメロディで、恋愛や家族といった日常的なテーマを描き出し、多くの人々の共感を集めました。また、赤坂小梅や丸山和歌子のように地方的な訛りや風情を大切にした歌い手も存在し、都市と地方を結ぶ文化の橋渡しの役割を果たしていたのが印象的です。
一方、軍国主義が台頭しつつあった時代背景を反映するように、「肉弾三勇士」や「満洲行進曲」「討匪行」など、戦意高揚を意識した楽曲も登場します。これらの曲はラジオや映画館を通じて広まり、国民精神の鼓舞や世論形成にも一役買うようになっていきました。こうした傾向は、やがて戦時歌謡の本格的な流行につながっていきます。
また、同年には西條八十と中山晋平による「丸の内音頭」や、「東京音頭」の前身とされるような音頭調の楽曲も目立ち始めました。都市生活者のための音楽が生まれつつあったことを示しており、サラリーマン層や新興の都市中産階級に向けた娯楽としての機能も持ち始めていたのです。「牧場の朝」などの唱歌や学校教育を通じた音楽の普及も引き続き進められ、音楽は“教養”としても生活に根づいていきました。
この時代はまた、欧米の流行を背景にした洋楽やダンスミュージックの流入も見逃せません。コロムビア・リズム・ボーイズの「山の人気者」は、ユーモアとリズム感にあふれた演奏で、当時のジャズやスウィングの影響を色濃く受けた作品です。海外ではデューク・エリントンの「スウィングしなけりゃ意味ないね」が話題となり、アメリカで生まれたスウィング・ジャズが徐々に日本にも影響を与え始めた年ともいえます。
映画音楽との結びつきも深まりつつあり、「金色夜叉」や「天国に結ぶ恋」といったタイトルからは、文芸と音楽の融合が進んでいた様子もうかがえます。こうした作品群は後に“歌謡映画”として独自のジャンルを形成する土壌を築いていきます。
総じて1932年の音楽シーンは、旧来の節回しや民謡的な要素を残しつつも、新たな都市型音楽や欧米的なリズムがじわじわと入り込んでくる過渡期にありました。特定のスタイルに収束するのではなく、さまざまな系統の音楽が共存していたことで、多様性と柔軟性を持った時代だったといえます。この年の音楽が持っていた感性や価値観は、戦前・戦中・戦後の流行歌へと確実につながり、日本の大衆音楽の土台を形成していくうえで重要な役割を果たしたと言えるでしょう。
1932年(昭和7年)の名曲、発売リスト
以下に、1932年の代表的な演歌・歌謡曲をいくつか紹介します。
- オリオン・コール「肉弾三勇士」
- ミス・コロムビア「十九の春」
- 市丸「天竜下れば」
- 小唄勝太郎「島の娘」「柳の雨」
- 小唄勝太郎、三島一声「東京音頭」
- 松島詩子「Lucky Seven の唄」
- 中野忠晴とコロムビア・リズム・ボーイズ「山の人気者」
- 藤原義江「討匪行」
- 藤山一郎「影を慕いて」「金色夜叉」
- 藤本二三吉「満洲行進曲」
- 徳山璉「満洲行進曲」
- 徳山璉、四家文子「天国に結ぶ恋」
- 和田春子「幌馬車の唄」
- 渡瀬春枝「時雨ひととき」
- 渡辺光子「旅は青空」
- 丸山和歌子「風も吹きよで」
- 小林千代子「涙の渡り鳥」
- 小唄勝太郎「島の娘」
- 柳井はるみ「月の沙漠」
- 法政大学応援団、岡本雅雄「若き日の誇り」
- 西條八十、中山晋平「丸の内音頭」
- 唱歌「牧場の朝」
- 市歌「福岡市歌」
- 軍歌「爆弾三勇士の歌」
- 国歌「大滿洲國國歌」

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