意外と知らない 歌謡曲ってどういう音楽?

多様性の時代 令和の今だからこそ歌謡曲の語源と成り立ちを見つめ直してみる

歌謡曲は、日本の大衆歌曲の一種であり、その成り立ちは昭和初期にまでさかのぼります。当初は「流行歌」や「はやり歌」と呼ばれていましたが、その後、日本放送協会(JOAK、現在のNHK)が「歌謡曲」という名前で放送を開始したことで広く認知されるようになりました。

歌謡曲は、映画、ラジオ、レコード、テレビなどのマスメディアの発達と深くかかわりながら、外来音楽の影響も受けています。大正期に大流行した「カチューシャの唄」(1914年)が、歌謡曲の第1号とされ、その後も多くの歌謡曲が生まれてきました。

中山晋平や古賀政男、東海林太郎、そして美空ひばりなど、多くの作曲家や歌手が歌謡曲の世界に名を刻んできました。特に戦時下では、古関裕而が作曲した「露営の歌」や「若鷲の歌」などが軍国歌謡として広まりました。

昭和の初めから日本放送協会が用いた「歌謡曲」という名称は、洋楽や民謡、ポピュラー音楽の影響を受けた大衆的な歌曲を指しました。歌謡曲は感傷的で抒情的な歌詞が多く、独特の旋律や節回しを持ち、その人気は広がっていきました。

1950年代にはテレビ放送の開始とともに、レコード産業との連携によるプロダクション・システムが導入され、歌手の売り出しにも活用されました。その中で、ロカビリー旋風が巻き起こり、和製ポップスの登場がありました。

1960年代に入ると、ザ・タイガースやブルー・コメッツなどのグループ・サウンズが流行し、1970年代にはニューミュージックやアイドル歌手の台頭が見られました。同時に、カラオケ・ブームの中で伝統的な歌謡曲の売上げが減少していく時期でもありました。

現代では、音楽の聴き方が多様化し、様々なジャンルの音楽が共存しています。歌謡曲の名前は現在はあまり使われなくなりましたが、その豊かな歴史と多くのヒット曲が、日本の音楽文化に深い影響を与えています。

令和の今だからこそ、歌謡曲の成り立ちと意味を考えることで、日本の音楽文化の一端を知るとともに、音楽が社会や個人に与える影響や意義を改めて考える良い機会となると思います。また、歌謡曲が現代にどのように受け継がれているのかも観察し、音楽の多様性と進化を見つめ直すことが出来ます。

その結果、伝統的な歌謡曲の成り立ちを振り返り、歴史の尊重と継承を意識することで、日本独自の音楽文化の豊かさと多様性を再認識する契機になればと思います。

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